(前略)
○土肥委員
この議論を長くしようと思わないんです。なぜならば、日本にはたくさんの宗教、宗教団体、宗教的行為が行われておりまして、宗教人口を数えると日本の人口の二倍になるんですね。だから、日本人は、二つ、三つの神様を拝んでも別に問題じゃないんです。俗に言う、赤ちゃんが生まれるとお宮参りをして、結婚をするときはキリスト教式でやって、死ぬときは仏教でやる。大変宗教的な国民だろうかと私もやや疑問を持ちながらも、大変さまざまな、活発な宗教行為が行われているわけですね。そういう、ある意味で、諸外国から見れば、どんな国なのかわけがわからぬ、宗教的にいうとわけがわからない国なのでございます。
第一、国会議員で、自分の身分証明のところに宗教を書く欄がございませんですね。外国に行くと、あなたは何教ですかと言うと、いや、私は無宗教ですと。もしパレスチナやイスラム圏でそんなことを言えば、この人はなきに等しい人間だというふうにも考えられがちな状況でございます。
我々国会議員も、心しなきゃならないのは、幾つもの宗教団体と交際して、きょうは天理教、ちょっと具体的な名前を挙げるのはやめましょう。次は何々教とかなんとか、さまざまなところに行きまして、ベテランの先生を見ると、実にその宗教に合ったしぐさをなさるんですね。本当に感心してしまうわけでございます。
そういうふうな状況でありますから、宗教教育というのは、これを学校で教えるというのは至難のわざなんです。今言いましたように、伊勢神宮に行くべきか行くべきでないかなんという話も、子供たちがどんなしぐさをするかというようなことまで気を使うんでしょうか、まあ余り考えないで行っているというふうに思うんです。
そういう中で、今回、教育基本法をつくり直そうというわけですね。宗教教育のところについては、ほとんど与党案は手をつけていない。政府案は変更を加えていない。つまり、余り議論したくないということだろうと思いますけれども、これは、現場の教師が教育基本法に基づいて自分の教育をまじめに考えるとなると、とんでもない課題を負うことになります。
したがいまして、文科省におかれましては、単に伝統的な諸宗教の歴史やその宗教概念、中身について知識として教える、これは、初めから宗教教育としてはナンセンスなんです。子供は恐らく興味を持たないと思いますね。だから、よほどのカリキュラムと教材を用意しなければ、とても宗教教育はできないというふうに考えます。それも、子供たちの生活に具体的に触れるような、子供たちの状況に宗教教育の中身が心に響くような教育をしないと、こんな退屈な授業はないと思うんですね。
そういうことを申し上げまして、政府案に対しては、非常に粗雑な、問題を避けた法文だと申し上げたいと思います。答弁は要りません。
一方、民主党は、十六条で、生命、宗教に関する教育と、ここに生命を載せたわけです。そして、「生の意義と死の意味を考察し、生命あるすべてのものを尊ぶ態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。」と、この冒頭に出してこられた理由、目的についてお答えいただきたいと思います。
○藤村委員
土肥委員は牧師さんでもいらっしゃいますので、宗教論争をし出したら多分切りはないかと存じますが、今お問い合わせの件は、私どもの十六条一項で、生の意義、死の意味という、このくだりを入れたのはなぜか、こういう御質問でございます。
私たちの意図は、今政府の方からのお答えもありましたが、学校教育において、命の大切さということはきっと非常に重要視し、きょうまでさまざまに指導し、努力をされてきたことであろうかと思います。ただ、それが全然実っていないのではないかというのが私どもの一つの問題意識であります。
人間の生きることの意義、死というものの意味するところについて、これは教育上も本当に大きなテーマであるにもかかわらず、きょうまで適切に指導されていない現状をかんがみ、さらに、近年のインターネット社会の中で、仮想情報空間に対する的確な理解については、やはり生の意義、死の意味の考察を前提として取り組んでいかねばならない、そんなふうに考えておりまして、それが現代的課題だと思います。
ですから、以上の点は、むしろ哲学的な考察とも考えられますが、加えて、やはり宗教に関する教育とともに重視し尊重されるべき課題であることから、このように入れた次第でございます。
○土肥委員
生命と宗教を結びつけたところにこの法案の特徴があると思うんです。つまり、宗教というのは、生きとし生けるものの宗教であります、すべて生きているものがかかわりを持つ。そして、全く拒否する人もそれでいいのであります。無宗教という人は、私に言わせれば、徹底的に無宗教を貫いて一切何物をも信じないという生き方からは新しい倫理が生まれてくると思いますが、日本のように、二つ、三つの宗教を同時並行的に信仰できる人たちというのは、なかなかそうはいかないと思うのであります。
生命というものは限りがあって、そしてやがて死ななきゃならない。それが、早い場合は、子供の生命にしても、私も、十三歳でがんで亡くなったある少女の絵はがきを収録した本を買い求めましたけれども、これは非常に重要なテキストになると思うんです。
彼女は、かわいい女の子ですけれども、二歳半ぐらいで血液がんを患います。それが、うまいぐあいに六つ年上のお姉ちゃんと血液型が合ったわけですね。二歳ですから八歳か九歳のお姉ちゃんから血液の移植を受けて、白血病は治る。そして、小学校の六年生のころに突然脳腫瘍が発見される。そして、二回の脳腫瘍手術の後、亡くなっていきます。その間に、彼女は三百六十枚の絵はがきをかいたんです。その本が出ております。
この本なんかは実にすぐれたテキストなんですね。苦しみを訴えながら、非常にユーモアのある、ベッドサイドでかいた絵はがきなんです、ぜひお買い求めいただきたいと思うのでありますが。この中で、子供がこれを読めば、同じ年齢の子供が死んでいく、その中で母親、父親がどういう態度をとったか。そこには宗教的においは全くないんですけれども、そこにある、生きること、死ぬこと、そして親の愛情、そういうものが、多くを語らなくても心に伝わってまいります。
こういう死、あるいは生と死、それと宗教が結びつくのは当然でございます。そのために宗教があると言ってもいいくらいであります。ですから、政府案というのは、そういう宗教の持つ根源的な課題、根源的な意味を本当に理解して書かれたものとは到底思えないのでございます。
しかし、宗教教育というのは、やはり難しいけれども、生身の体を持っている子供たち、そして、それを取り巻くいろいろな状況、教育審議会が言っているようなとんでもない状況が今起こっているわけでありますから、やはり子供たちの生と死に着目して、その視点から宗教教育を考えていくときに、私は無限大の宗教教育が可能だと思っております。そういう意味も込めまして、民主党の案については大変すぐれたものだと私は思うわけでございます。
ただ、いわゆる現行の第二項の、特定の宗教の信仰を奨励したり、これに反対するための宗教教育その他宗教的活動をしてはならないという、この強い第二項は、現場を萎縮させるんです。
もっと生き生きとした、生と死、そして、結局死の問題は宗教しか解決できないわけでありますから、そこへ至るダイナミックな宗教教育というものをこの二項が封じてしまう。いかにも国家的、あるいは公教育に対する、何かすべて中立でなきゃならないというふうなことがありまして、第二項は、やはり今後、その中身によっては許される範囲だと私は思っておるわけでございまして、民主党案についてもこの辺はもっと議論しなきゃならないと思っております。
これはやめましょう、まあ、せっかくだからちょっと言いますと、小学校の校長先生ががんにかかりました。これはテレビに出ましたけれども、自分が死んでいくということを前提に、ずっと子供に校長先生が、生きること、死ぬこと、病気のことを語るわけですね。これはもうすばらしい校長先生で、その後すぐに亡くなられるわけですけれども、教員とて、教師とて、みんな生きる悩みを持っているわけですから、それを子供たちに告白する。すると、子供も悩みを持っていますから、そこに応答が起こる。そこは何も原則はないわけでありまして、そのときそのときの場面に応じて展開していい教育ではないかと思っております。
次に参りますけれども、政府案では、何の前提もなく宗教と出てくるわけでありまして、民主党案では、生の意味と死の意味を考察、生命あるすべてのものを、こういうふうに前提で挙げておりますから、そこに宗教というだけで物事を判断してはならないと思うのであります。
宗教の地位というのがございますね。そして、寛容という言葉が出てまいります。宗教を論ずるときに、その地位と、それから、宗教を論ずるときに寛容な態度を持たなきゃいけない。一体これは何を意図しているんですか、現行法にもございますけれども。御答弁いただきたいと思います。大臣、どうぞ。
○小坂国務大臣
ただいま土肥委員がお述べいただきましたことは、宗教家であられる土肥委員と私は神学論争をするつもりはないわけでございまして、その御見識は敬意を表したいと思いますが、お述べになった中には若干、宗教家としての思い入れがこの宗教教育に反映し過ぎる嫌いがないだろうかと思う部分もないわけではないわけでございます。
私は、現行法、また現行法に基づきます学習指導要領におきましても、例えば小学校の道徳の時間では、命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を尊重すること、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めること、また、この世に生きることのとうとさ、死の重さを知ることを通じて命の大切さを理解し尊重する態度を育てるための教育、こういう指針を示しておるわけでございまして、こういった尊重する態度を育てるための教育を行っていると認識をいたしております。
また、今回の法案におきましても、豊かな情操をはぐくむあるいは命をたっとびということが規定をされているところでございます。紹介するまでもないと思いますが、二条の中に明確に規定をしてきているところでございまして、教育の目的としてそれは明らかにして、四号において、「生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。」として、命というものについて考える、そういう規定を盛り込んでおります。
ただいま委員が御指摘をいただきました、政府案で規定している宗教に対する寛容の態度は何か、また地位とは何かということでございますけれども、まずもって宗教は、もう今さら申し上げるまでもなく、人間としてどうあるべきか、与えられた命をどう生きるべきかということなど、個人の生き方にかかわることであります。また同時に、社会生活における重要な役割を持っておりますから、人類が受け継いできた重要な文化として、これをしっかり教育するわけでございます。
しかし、宗教的な信仰というものについて述べるときに、宗教的な信仰を持つ者あるいは持たない者、自己と異なる信仰を持つ者、こういう方々に対してお互いの立場を認め合う態度、これがすなわち寛容の態度でございます。またこのような態度をはぐくむことは、憲法に定める内心の自由、憲法十九条に規定されております内容、また信教の自由、二十条も実現する上で、極めて重要なことだと考えております。
また、宗教の社会生活における地位というのは、宗教が歴史上、社会生活上において果たしてきた役割や、現在の社会生活において占めている社会的な機能と申しますか、言ってみればその役割とか価値とか、こういったものを指して言うものでございまして、これらについては、特定の宗派に偏ることなく理解させることは今後とも重要であり、必要なことだと考えております。
委員が御指摘なさいましたいろいろな事例の中でも、現場でどのようにしているかというお問い合わせがありました。これは大仏建立とかそういうことを今現在は教えているわけです。大仏はどのようにして建立されたか、また、日本にはどういった神社仏閣というものがあるということは、仏教や神道というものがあるんだということ、また、世界にはキリスト教を初めとしてイスラム教、いわゆる三大宗教と言われるようなものもありますよということと、それからその分布はこのようになっていますよということを教えることによって、一般的な教養として宗教に取り組んでいくということでございます。
先ほど委員がおっしゃいましたように、現行法の第九条二項を拡大解釈して慎重になり過ぎる、宗教教育を禁止されているんだということからすべてに抑制的になり過ぎるという嫌いがあったということを考えまして、一般的な教養という面で、宗教に対してしっかり取り組んでいただくこと、これを規定したところでございます。
○土肥委員
私はなぜこれを質問したかというと、宗教というのはいつも先鋭化して危ないものだ、宗教紛争が起きたら必ず戦争になるというふうな、何か基本的な概念があって、なるべく寛容に接しなさいと。これを子供に教える必要はないんじゃないかと思うんです。むしろ、なぜ紛争が起きるのか、なぜ宗教の名を冠して戦争が起きるのかということを教えるべきなんです。
ボスニア・ヘルツェゴビナに私二度参りましたけれども、戦争終結後すぐと、それから五、六年たって参りました。今も何も変わらない、三派分立して、三宗教分立してといいましょうか。だけれども、結局は、政治家の野望が宗教を利用しているんです。自分のアイデンティティーを一層高め、自分たちの同志がなお一層先鋭化するために宗教を利用するんです。ですから、問題は政治なんですね。だけれども、それを、寛容の態度でおりましょうなんといったって、それぞれ言い分があるでしょう程度のものであって、なぜそこに政治と宗教が結びつくか。政治教育というのも教育基本法にございますけれども。そういうことを考えると、何か初めから、宗教に接するときは寛容な態度でおりましょうねというのは間違いです、これは。宗教というのはそういう間違いも起こします。それをちゃんと教えたらいいんです。ですから、はなから、寛容の態度と。
それから、宗教的な地位。地位という言葉もおかしいですね。今大臣がおっしゃったように、機能とか価値とかという方が私はいいと思います。宗教団体に地位を求めるような人はいないと思いますよ。むしろ本当の宗教ならば、そんな地位にとらわれないで、庶民のために、国民のために、人間のために仕えていく、これが正直な宗教者の立場だと思いますので。何か既成概念を押しつけるのはよくない。
民主党も同じことを言っているんですが、いかがですか。
○藤村委員
まず、寛容の態度というところであろうと思います。私どもも、その寛容の態度という言葉を使っております。
先ほど来、土肥委員が御主張のとおり、本当に命、生命を尊重する教育がやはり教育の中で重要であり、それがいろいろな形できょうまで確かに実施されてきたものの、例えば、命は大切だというスローガン的なものにとどまり、生命の深淵に触れたり、あるいは、みずからは目に見えない力によって生かされているという謙虚さを気づかせる教育というのは系統立って行われてきたとは思いません。そういう意味で、やはり我々は、この宗教のところの条文というのは、相当検討した結果、ただし、憲法にある信教の自由のもとで教育の場面においてどういうことが可能かという視点であります。
宗教的な伝統や文化に対する基本的知識の修得、それから宗教の意義の理解、これが今の地位にちょっとつながるかと思うんですが、私どもは、宗教というものが客観的に見て社会の中でどういう位置にあるのかということで、我々は地位という言葉は使いませんでしたが、そういうことを含んでいると御理解いただきたいと思いますし、さらに、宗教的感性、これは情操というのと近い意味であります、あるいは宗教に関する寛容の態度を養うことを尊重としました。
寛容の態度につきましては、土肥委員の御指摘の紛争のことがございましたが、我々はもう少し国内的に、寛容の態度は、宗教を信じるあるいはまた信じない、これらについて、あるいはまたさらに一定の宗派を信じる、信じないこと、それぞれがまさに信教の自由のもとで許されているわけで、そのことに対してそれぞれがやはり寛容な考え方を持って臨む、そういう意味での、我々は寛容という言葉を使ったところであります。
○土肥委員
またこれを余り論争すると神学論争と言われますからやめたいと思います。本気になって私と神学論争をする方があれば、皆さんにどんな議論でもいたします。やはり政治家が神学論争というのはやめましょうよ。神学をやったこともない人が神学論争をやるということでございます。
たくさん宗教があるということを申し上げましたけれども、最大の母体は神社宗教だろうと思います。祭事に出ますと、歴史は二千六百何十年とおっしゃるんですから、日本国開闢以来ある宗教が神社宗教でございます。
神社宗教というのは、教義がない、教えがない宗教なんですね。もちろん、教派神道というのがございまして、その後生まれて、大本教とかいろいろございます。そういうグループは、神道ではありますけれども、教派神道と呼んでおりますね。教義を持っている。つまり、宗教団体を、神社を離れて教会をつくるというときには、それなりの主義主張があってつくるわけでありますから、それでいいのでございます。
しかし、多くは、教義のない、教えのない、伝統だけで宗教を営んでいる神社ですね。私は神主さんからこう言われたんです、今度例大祭があるから来てくれないかと。いや、私、宗派が違うんですけれどもと言いましたら、いや、よくわかっている、でも、あなたしかこの地域で国会議員はいないんだから、来てほしいというわけですね。まあ、それではと。そのときに、その神主さんがおっしゃったことは、土肥さん、心配要らない、神道は、形だけです、中身は問わないんですと。だから、形だけでいいからおいでよ、こうおっしゃるので、本当に形だけなんだろうと思って行きましたら、なかなかそれはまた二礼二拍一礼だとかございまして、私はしょっちゅう間違って、うちの秘書が後ろで笑っているんですけれども。
私は、神社に行っても何の抵抗もありません。なぜならば、そこに教えがないからです。教えがあると、それはアマテラスオオミカミとかそれから皇室と結びついていますから、皇室の繁栄をというようなことをいいますけれども、それ以外はほとんど問題がないわけです。
一番傑作なのは、選挙のとき、私はやりませんけれども、地方議員、市会議員などがやるときに、民主党の候補者の中にそれぞれ神主さんが来るわけですね。そして、おはらいをするわけですね。神様、大変だろうなと思う。この議員を通してやってくださいというと、あとは落としてくださいということだし、どんな気持ちで祝詞をささげるのかわかりませんけれども、日本というのはそういうところでございます。
せっかく官房長官おいでになっていまして、きょうは限られた時間の中だというふうに聞いておりますので、要するに、神道あるいは神社というのは伝統と儀式があるだけでございまして、そこで祭神と申しますが、なぜそこに拝みに行くかといえば、大抵はアマテラスオオミカミ、皇室もそうですね、皇室の祭礼もその中心的地位を占めるのはアマテラスオオミカミでございます。
では、二千六百年の間、今度はだんだん神々がふえてまいりまして、いろいろな神が生まれます。明治神宮なら明治天皇、徳川家康だったら東照宮ですね、祭神がかわってまいります。
官房長官に申し上げたいのは、小泉総理大臣が靖国神社に五年続けて参拝した、これは、神道の伝統からいうと、あの靖国神社は、だれを祭神としているのか。アマテラスオオミカミではないのか。そして、そこに参拝するというのは、どういう意味で小泉総理大臣は参拝しているのか。その心のうちがわかれば、お答えいただきたい。わからなければ、あなたの心のうちを伝えてほしいと思います。
(中略)
○松浪(健四郎)委員
私は、学生時代の四年間について答弁していただければありがたかったというふうに思っておりますけれども。
副大臣がみずからの教え子の中からできたということは教育者の端くれとして誇りでありますし、大変うれしく思っております。
とにかく、教員が、教壇に立つ者がどれだけ子供たちに情熱を注ぐことができるか、このことが問われております。そういう意味では、ずっと両案をお聞きしていて、私は、両案ともに、教育に対して、我が国の子供たちに対して何を与えなければならないかということについて必死であるということを痛感いたしますし、うれしく思っております。そして、昨日の小泉総理と鳩山民主党幹事長の議論をお聞きしていて、まあ大した差がないな、こういう印象を持ったのもまた事実であります。
いずれにしても、これからの我が国を背負ってくれる子供たちに立派に成長してもらいたい、そして、国のためにも、また世界の平和のためにも貢献できるような立派な人格を持った人材がたくさん輩出される、これを願って両案が出ておる、こういうふうに思うわけであります。
そこで、限られた時間ではありますけれども、おおむね政府案については知識がございますので、民主党案に限って質問をさせていただきたい、こういうふうに思います。
政府案ができ上がったころにも、自由民主党を支援してくださるいろいろな組織、団体がございます、また自民党の議員の中からも、不平不満と、この案では満足できない、反対だ、このような声もございました。
では、民主党案ができたときに、民主党を支援されている諸団体はどんな印象を持ったんだろうか、そのことに私は興味を持ちました。
例えば、日本教職員組合は、政府案に対して、教育基本法の理念、公教育のあり方を根本から変えることに強く反対する、共生、共学、教育の機会均等を保障するため教育環境格差の拡大こそ解決すべき課題である、個人の内心にかかわることを法律で規定すべきではない、学校・家庭、地域への役割と責任の義務づけは基本的人権の侵害につながる、政府主導による教育振興基本計画の策定は教育の主体性や自律性が失われる、検証、審議過程を明らかにせず、国民不在の改正論議は断じて容認できない、これが日本教職員組合の政府案に対する反対理由であります。
しかし、民主党案と政府案とを読み比べてみますと、若干の違いはあるとはいえ、おおむね似たり寄ったりであります。
それで、民主党案に対して、日本教職員組合はもろ手を挙げて賛成されているんだろうか。まず、このことを提案者にお尋ねしたいと思います。
○藤村委員
松浪委員には、きょうは貴重な時間を割いていただいて、我が党案にのみ今から御質問をしていただくということで、大変ありがとうございます。
まさに、我が党案あるいは政府案も、いずれもやはり成立の過程、経緯ということは非常に重要であり、きょうの午前中もそういう議論は進められてきたと思います。
簡単に、短くお答えをした方がいいと思いますが、私どもの方は、党の中で教育基本問題調査会というのを、これは小渕首相が国民会議をつくったあのときに、同時に我々も教育基本問題調査会を発足させた。以来、ですから六年ぐらいになろうと思います。昨年の四月に、この教育基本問題調査会におきましては、新しい教育基本法を我々は策定すべきであるという中間報告を取りまとめいたしました。
そのときから、いろいろな外部の各種団体、労働組合の連合、経済団体、弁護士さんの団体、あるいは宗教関係の団体等々のヒアリングを進める中で、もちろん、まず、今の教育基本法で何が悪いか、変えるべきでないという意見もたくさん伺ってまいりましたし、いや、六十年たってきて、やはりいろいろな面で、ここはこうすべき、ああすべきというたくさんの御意見をいただいてきた。そんな中で、我々の方は、今回、日本国教育基本法という新法を提案させていただいたところでございます。
今お問い合わせの件、いわゆる労働組合の一つの団体であります教職員の組合からは、公式にまず我が党案に賛成か反対かということはまだ伺っておりませんが、各、中央の団体だけでなしに地方の団体からはさまざま、我々の法案にも反対である、今変えるべきでないという意見はその後たくさん聞いております。まだ公式に伺ったわけではございません。
○松浪(健四郎)委員
どんな立派な案であったとしても、すべての団体、すべての人たちを満足させる案をつくるのは難しいだろう。そして、民主党案に対しても、民主党を支持される団体にも反対があるということは、私は、異常ではなくて当然であろう、こういうふうに思います。特に、民主党の前文を、長い長い前文でありますけれども、これを読ませていただければはっきりとする、こういうふうに思います。
それで、この民主党の法案は、民主主義、自由主義、平和主義をもとに構成されていると私は理解しておりますけれども、それでよろしいでしょうか。
○藤村委員
今、松浪委員おっしゃったように、憲法の三大原理であるところの民主主義のあらわれとして、これが国民主権、自由主義のあらわれとしての基本的人権の尊重、そして平和主義、我々は、現行憲法の特に前文ないしそれらの原理にのっとってこの日本国教育基本法をつくったわけでございますので、今そういう御質問ですから、そのとおり御理解いただいて結構だと思います。
○松浪(健四郎)委員
冒頭、常識的なことをお尋ねいたしましたけれども、まず確認しておきたかったわけであります。
それで、前文を読ませていただきますと、日本国民、我が国、そして日本、日本国、日本、こういうふうに前文に出てまいりますが、例えば「日本を愛する心を涵養し、」の日本、それから「日本国憲法の精神と新たな理念に基づく教育に日本の明日を託す決意をもって、」このようにございますが、ここで言う日本とは何を指しているのか、お尋ねいたします。
○藤村委員
日本とは、まさに今ここに我々がいる、この国であります。そして、我々は、特に「日本を愛する心を涵養し、」といったところに込めた意味というのは、やはり二千年以上の長きにわたって、海に囲まれた、割に特殊な地形の影響もありますが、他国とは相当趣の異なった文化、伝統をはぐくんでき、日本語の話もそうでございますが、あるいは気象の状況でも、四季に恵まれ、亜熱帯から温帯、亜寒帯までの非常に幅広い範囲で、こういう自然、あるいは郷土、国土、そういった総体を含めて我々は日本と、まさにここが日本であるという理解であります。
○松浪(健四郎)委員
ということは、我が国の国名だ、こういうふうに理解をさせていただきます。
それでは、この国の、日本の統治範囲について、日本の国土、これが一体どこからどこまでなのか、お尋ねしたいと思います。
○藤村委員
その統治範囲はどんな範囲かという御質問だと思います。
その前提にまず、我々の言う日本も、もちろん国号、国の名前を指していることはそのとおりであります。
そして、その日本が一体どこからどこまでを統治しているかという御質問ですが、これは一つの答えとして、我々は、いわゆる国内法の及ぶ範囲というのが正しい答えかなと。といいますのも、実は、この中だけでなしに海外の在外公館なども一応日本ということが言えるかと思いますので、まさに国内法が適用される範囲ではないかなと思います。
○松浪(健四郎)委員
ということは、北方領土や竹島は含まない、こういうふうに理解してよろしいんですか。
○藤村委員
いわゆる領土問題ということを今想定しての御質問かと思います。
歴史的な経緯から画定されている領土の範囲というのは国境線であろうと思いますし、今全く国境線の問題がないとは我々は考えておりませんが、しかし、それはそれで今後のまさに課題であって、我々は、やはり日本の国内法の及ぶ範囲ということが特にこの教育基本法においては想定される範囲ではないかなと思います。
○松浪(健四郎)委員
今の御質問では、北方領土と竹島は国内法が及ばない、だから違うんだというふうに理解してよろしいんですか。
○藤村委員
北方四島、竹島、日本の領土内だと思っております。
○松浪(健四郎)委員
そうしますと、前文に、もちろん前文は法的な拘束力は弱いかもしれませんけれども、以下続く条文にはそれなりの拘束力を持つものだ、こういうふうに私は考えておりますけれども、このように書かれてありますね。「日本を愛する心を涵養し、」云々、こうあるわけですね。ここで、日本を愛する心を涵養する。みんな簡単に、愛国心、愛国心、国を愛する心という表現を容易に使われているような気がいたしますけれども、やはり厳密に考えてみなきゃいけないんじゃないのか。
愛というのは、一般的には、損得なしで相手に尽くそうとする気持ちなんですね。損得なしで相手に尽くそうとする気持ちなんです。これは、イスラム教ではまさにジハードなんですね。おのれの命はどうなっても構わない、損得はどうでもいいんだ、自分の民族、部族、国家のために、たとえ自爆テロをしてでも行動に移す。
この愛という言葉は非常に深い意味を持っている、私はこういうふうに思っております。そして、心というのは、その人の精神であり、魂であり、感情である、こう思っております。その心を涵養する。涵養ということは、実力であるとか教養であるとか、この言葉は、そういったものが後に実を結ぶように底力をつけること、これが涵養なんですね。ということは、愛する心を涵養という表現は怖い表現ではないのか、私はこういうふうに思っております。
こう書かれた背景について、民主党でもいろいろな御異論があったように報告書には書かれてありますけれども、その辺のいきさつについてお尋ねしたいと思います。
○藤村委員
今、松浪委員は、イスラムの方からジハードということ、この意味を少し説明いただいたと思います。
私が先般総理大臣に質問したのは、この今の、日本で言う愛というのは、むしろキリスト教的愛、一五四九年にポルトガルの宣教師が鹿児島へ着いた、以来のあの言葉ではないかなと。そのときはアモールという言葉でございました。それは、イスラムのジハードとはやはりちょっと趣が違うのではないかと思います。
怖い言葉とおっしゃいました。すなわちそれは、何か非常に国粋的なナショナリストを育てていくんではないかなという趣も多分御心配のところかと思います。
国粋主義とかナショナリストというときには、自国の歴史、文化、政治を貫く民族性や国体の優秀性を主張し、民族固有の長所や美質とみなされるものの維持、顕揚を図る思潮や運動というふうに辞書には載っておりましたが、我々の方はそういうものを目指すのではなくて、むしろ、二段落前に、前文ではございますが、「我々が直面する課題は、自由と責任についての正しい認識と、また、人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に、共に生き、互いに生かされるという共生の精神を醸成する」、このことを明記しておりまして、さらにまた一条では、「世界の平和と人類の福祉に貢献する心身ともに健やかな人材の育成」と記して、我々が「日本を愛する心を涵養」と言うのは、まさにそういう心を涵養したいということでございます。
○松浪(健四郎)委員
つくられた方はそうであるかもわかりませんけれども、読み手からしますと、そのようにはならないのではないのか。
そこで、どう書かれているかと申しますと、自立し、自律の精神を持ち、個人や社会に起こる不条理な出来事に対して、連帯して取り組む豊かな人間性の育成、こうあるんですね。社会に起こる不条理。提案者は、竹島の現状、北方領土の現状、これを不条理とは思いませんか。
○藤村委員
最後の方のお答えはちょっと後にしまして、自立し、自律の精神を持つことは、あるいは個人や社会に起こる不条理な出来事に対して連帯して取り組む人間性というものは、むしろこれは、国際紛争を初めとしたいわゆるいさかいというものが、一般的には相互の理解が不足しているということに端を発し起こるということが多々あるわけであります。そういうことから、やはり自律、自立、みずからの意思をしっかりと持つこと、あるいはみずからの足で立つこと、このことと、そしてこれは日本国教育基本法でありますから、日本社会における連帯の中でさらに世界平和を目指すわけですから、これは、国際紛争をむしろ解決するような人をつくりたいという意味でございます。
竹島そして北方領土問題については、先生のお考えはお伺いいたしました。
○松浪(健四郎)委員
私の心配しているのは、我々は自由主義だ、そして民主主義、平和主義だ。だけれども、本当に国を愛する心を持った立派な人材をつくるということになっていきますと、不条理なことに対して、潔癖な教育で染められた若者たちは決起するんじゃないのか、そしてそれをだれもとめることができないのではないのか。だからこそ欧米諸国は、教育基本法もフランス以外は持ちませんし、愛国心といったようなものを学校教育の中で教えようとしないんだなと。中国は、愛国心を教えておる、そして反日デモを起こした。おれたちは愛国心を持っている。その暴動をとめようとした警察官は、おまえたちは愛国心がないのかと言われてへなへなとなり、その後ろにいる軍隊も、おまえたちは愛国心がないのか、おれたちはあるぞということで、大きなデモになってしまったいきさつがあります。
つまるところ、愛国心というのは、やはり自然にいろいろな面から教えていくというか涵養させるべきものであって、学校教育の中で改めて教えるということに腐心する必要がないのではないかという考えを私は持つものであります。でなければ、愛国心を持った人間が竹島に上陸をする、あるいは北方領土に上陸する、そして大変な混乱を来すということになったときに、その人たちを責めることができるだろうか。難しい問題を抱えておりますし、悲しいかな、人間社会は常に不条理な一面を持ち続けていくし、それを一つ一つ解決するために、教育も必要であろうし、私たちの政治力も問われているのかもしれません。
そこで、私は、この表現がいかがなものか。そして、民主党案では、この教育を国政の中心に据える、こう書かれてあるわけですね。教育が中心なんだ、これは、中心に据えるものの一つという意味ですね。それとも、いや、もう社会保障なんかどうでもいいんだ、教育だけなんだという意味なのか、まずお尋ねしておきたいと思います。
○藤村委員
企業は人なりとよく言います。私ども、松浪委員も地元ですが、これはいいことだから名前を出していいと思うんですが、関西スーパーという企業があります。そこのホームページに、「企業は人なり」「何の輝きもない石も、長い時間と幾多もの人の手の中で、眩いばかりの光を放つ宝石へと姿を変えていく。 企業も然り。 さまざまな社員が自分の力を最大限発揮するからこそ生き生きと躍動感ある企業へと成長していく。」と、いい言葉が書いてあるんですね。
まさに国も人なりで、やはり国の基礎をなしているのはそこに住む我々人間だと思います。特に、日本は他国に比べて潤沢に天然資源が恵まれているわけでもないし、人知、人の力こそが日本を支えている。そういう意味で、私は、政治家の幾つかの使命は確かにあります、大きな使命があります。しかし、その中で教育がやはり最も重視する国政上の最重要課題ではないかなというのが我々の考え方でございます。
○松浪(健四郎)委員
最後にもう一つだけお尋ねしておきますけれども、民主党案には教育の目標がないんですね。目的はあるけれども目標はない、それは前文に書かれてある、このように理解してよろしいでしょうか。
○藤村委員
私ども、前文にまさに広い意味での教育というものをとらえ、その目的と、そして「我々が目指す教育は、」と書いておりますが、これがまさに目的であり、そして、その中にたくさん幾つか書かれていること、まさにこれが目標であるということで、そのとおりでございます。
○松浪(健四郎)委員
私ども、前文にまさに広い意味での教育というものをとらえ、その目的と、そして「我々が目指す教育は、」と書いておりますが、これがまさに目的であり、そして、その中にたくさん幾つか書かれていること、まさにこれが目標であるということで、そのとおりでございます。
(後略)
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