■おかしくなった日本の教育
かつて日本の義務教育は世界トップクラスとみなされていました。1970年代後半、エズラ・ボーゲルの著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が邦訳され、ベストセラーになりました。ちなみに翻訳した広中和歌子さんは現在、民主党の参議院議員になっています。この本は日本の教育について相当のページを割き、とりわけ初等教育を非常に高く評価しています。
また1980年代初頭、イギリスのサッチャー首相は教育改革を推進するにあたり、「日本の教育に倣え」と言いました。たとえばイギリスには、日本の学習指導要領にあたるような国としての教育のガイドラインが存在せず、教育の内容をどうするかは各地方政府に任せていました。そういった教育のあり方も影響して時刻の教育水準が低迷し、ひいては国家の斜陽化をまねいている。かかる現状認識から「鉄の女」と呼ばれたサッチャーはまさに教育問題に熱い鉄を流し込むようにして大胆な教育改革を断行したのです。
ところがイギリスの手本にされたほどの日本の教育がいつの間にか、どこかおかしいのではないか、と言われはじめます。特にここ10年くらいは、それが国民の共通認識になってしまったと言えるでしょう。皮肉なことに今や安倍総理が政権の重要課題として教育再生を掲げ、「サッチャーの教育改革を見習え」というはめになってしまいました。
そのような中、わが国の教育のあり方の指針となる教育基本法改正の議論が活発になってきたわけです。
それまでの教育基本法(以下、旧法)は戦後間もない1947年に作られた法律です。十一条からなるシンプルな法律でしたが、それこそがわが国の戦後教育の根本法でした。そこで謳われている基本理念は立派なものであり、今、読み直しても特におかしなところがあるわけではありません。ただ、欠けていた点がいくつかありました。また60年も経てば、社会状況が大きく変わります。
旧法は国で費用を負担することで国民の教育レベルを上げることを大きな狙いとする法律でした。具体的には戦前は小学校までだった義務教育の期間に何とか中学校の3年間を加えよう、というものです。それはすでに実現しています。
また旧法は高校から先のことが抜けていました。立法当時の、たとえば1950年の高校進学率は42.5パーセント程度でしたが、今や97.7パーセントにまでなっています。
生涯学習のこともあります。今やごく普通に用いられる言葉になりましたが、戦後間もないころはそういう発想自体ありませんでした。それもそのはず、1,960円台にユネスコで提唱された比較的新しい概念であり、それを導入して旧文部省に生涯学習局が設置されたわけです。
そのような変化への対応ということに加え、最近の日本の教育がどうもおかしくなっているのではないか、という国民の問題意識を踏まえ、それを正すための一連の法律に影響させるため基本法から見直す。それが今回の改定理由でした。
国民の問題意識として家庭教育のことがあります。大半の方は「日本の教育がおかしい」と口にされるとき、仮定の教育のことも含めて語られていると思います。現に小中学生の保護者を対象に「今の教育の何が悪いか」というアンケートをとりますと、「教員」などいろいろな要素があるものの、第1位にくるのが「家庭の教育」で、60パーセントにのぼります。家庭の教育に問題があることは保護者自身、気づいているわけです。そういう状況を受け、教育基本法に家庭教育について書くべきではないかという議論もありました。
■ 政府案は旧法の改訂版に過ぎなかった
2006年暮、政府が提出した教育基本法改正案が参議院で可決、成立し、同年12月22日に公布施行されました。
結果的には政府の改正教育基本法(以下、改正法)が通ってしまったわけですが、われわれ民主党も独自の日本国教育基本法案(以下、民主党案)を作成し、国会に提出しました。
民主党案と政府の改正法はどこが異なるかと言えば、そもそも基本的な思想から大きく異なります。
政府の改正法は結局のところ帝国議会で作られた旧法の改訂版に過ぎません。改正法の第一条の「教育の目的」に「国民の育成を期して行わなければならない」とあいrますが、これからして旧法とまったく同じ文章です。旧法の書き出しは「朕は」でした。たいていの人は前文の「われらは」というところからしか読まないため、この書き出しのことはあまり知られていませんが、政府案はそういう旧法の焼き直しです。
それに対して、われわれは現在の国会で作るのだから、新法であるべきだと考えました。旧法の思想、理念は十分忖度しながら白紙の状態から国家百年の計を立てたいという思いがあったのです。
民主党案の基本的な理念は、教育を通じてこの国を真の民主主義国家にすることです。与えられた民主主義でなく、自分たちで民主主義をつくっていく。そのためには真の主権者を育てなければなりません。第一条「教育の目的」でそのことを謳っています。
また政府案は主語を「国民」にしていますが、われわれは「何人(なんぴと)」、つまりすべての人としました。ここにも思想の違いが現れています。
日本は戦争直後と比べて大いに国際化しました。たとえばブラジルからの労働移民は今や30万人にのぼります。家族を連れて来ている人も多く、その子どもたちは国籍こそブラジルですが、日本で生活し、日本で教育を受けるわけです。教育基本法の主語を「国民」にすれば、その子どもたちを法律の対象から排除してしまうことになります。ブラジルに限らず、少子化で労働力人口が減少する時代を迎え、日本はこれまでのほぼ鎖国のような状態から徐々に外国人労働者を受け入れていく姿勢に転じつつあります。であれば、外国人労働者やその家族のことを念頭に置かなければならないということから、民主党案では条文の主語を「国民」でなく、「何人」としたのです。
■ 自公の妥協の産物
政府、とくに安倍さんを含むグループは今回の改正で「愛国心」という言葉を何としても入れたかったようです。それが目的化していたようにも思えます。
それをめぐり、自民党と公明党が最後までやり合ったことは、だいぶ報道もされました。自民党と公明党は3年間で70回も協議を行ったそうです。ただ、その協議は項目こそ公表していますが、中身についてはオープンにしていません。その場で自民党は「愛国心」という文言にこだわったようですが、最後は公明党に譲るようなかたちで、「国を愛する態度を養う」という理解しがたい表現にしてしまいました。
なぜ「国を愛する態度を養う」なのか。その件をめぐって私は文部科学大臣とやり合いました。私は「態度の背景には心がある。なぜもっと素直に、国を愛する心を養う、としなかったのか」「態度は評価の対象となる。態度の背景に心があるなら心まで評価することにならないか」、そうしきりに質問したのですが、彼らも相当困ったようで、納得できる答えはついに得られませんでした。
態度と心は裏腹のこともある、ということかもしれません。では態度だけ繕う人を評価すれば、それでよいのか、そこも分かりません。人の心は評価できないし、評価の対象にすべきでもありません。
民主党内で法案をまとめるうえでも愛国心のことは相当議論しました。この日本で暮らし、日本で教育を受け、日本の社会を支えていく人々にとって愛国心は改めて言われるまでもなく、自然に身につけていくものでしょう。そこでわれわれは前文にはっきりと「日本を愛する心を涵養(かんよう)し」と入れました。「涵養」とは雨水が地面にしみ込むように自然に身につけるという意味です。
日本国教育基本法にはきちんと「日本を愛する心」という言葉を入れる。ただし健全な愛国心は教育現場で強制されて育つようなものではない。それがわれわれの考え方です。
■ 給食費をめぐるたらいまわし
愛国心とともに問題になったのが宗教教育をどうするかです。旧法には「尊重する」と書かれているものの、あくまでも一般教養のレベルに抑えられていました。戦後の占領政策の中でアメリカは戦争中、日本は自らの国を神の国と予備、国家神道が軍国化につながった、という見方をしていたため、GHQの意を受けた教育刷新委員会が注文をつけたのです。日本側はそれを受け入れました。日本国憲法もそうですが、完全に日本人が日本の国のために作った法令ではなく、やはりアメリカの影響がかなりあったことは間違いありません。
そもそも宗教とは何か。つきつめれば、命とどう向き合うか、だと思います。その生命の大切さということが、とくにここ10年、20年の日本の教育で決定的に欠けていた。それどころか、ときには避けていた。宗教教育に関して非常に限定的な知識しか教えていなかった。そいういう反省から民主党案は第十六条「生命及び宗教に関する教育」で宗教教育について踏み込んで書きました。世界にはキリスト教があり、イスラム教があり、仏教があることだけでなく、それぞれの教義の基本的な内容まで教えるべきだという考え方です。
自民党の中にも、ぜひそこまで書きたいという意見があったのですが、これについても公明党が最後までかたくなに抵抗して、結果として、世界には四大宗教があります、というところでとどめておけ、ということになったのです。
新法とわれわれの対案は教育行政についても相違があります。ここは教育現場を具体的にどう変えていくか、というとき最も重要な部分です。
日本の教育システムの問題点は責任の所在が曖昧なことです。
知人から、このような話を聞きました。小学生のお子さんを持つ方が「体質の問題があり、給食を食べさせたくない。弁当を持たせたい」と担任の教員に相談したところ、「校長に相談します」ということになった。校長は「給食も教育の一環であり、それを拒否しようというのだから、これは大変なことだ」と困って市の教育委員会に相談をもちかけた。市の教育委員会は「そんな相談は受けたことがない」と慌てて、「とてもわれわれの一存では決められない」と県の教育委員会に相談する。県の教育委員会も驚いて、文部省(当時)におうかがいを立てた。文部省は「私たちは基準を示すことはできるが、教育の実質的権限はそれぞれの学校設置者にある。この場合、市立小学校であるから学校設置者は市の教育委員会ということになる」という。そういうたらいまわしになり、最終的に「お子さんも給食をとってください」ということになったものの、その結論に達するまでに半年かかったそうです。
こういう責任体制の曖昧さが、さまざまな問題を引き起こします。
そこで民主党案は小中高校の教育の最終的な責任は国にあると明記しました。自民党はこの表現ものどから手が出るほどほしかったようですが、これも公明党が反対しました。公明党は司法、行政。、立法の国の三権に教育を加えて四権ととらえ、教育を国の責任、すなわち国会と内閣の責任にすれば、教育が歪められるという発想があるようです。
われわれの発想は民主主義国家における教育に関する最終的な責任は国会と内閣が負うべきだということです。そこで学習指導要領や教科書、教員の採用など、基本的な事柄についての責任、教育に関する法律を整備する責任、教育予算に関する最終的な責任は国が受けもつとしました。
以上のように今回、政府が提出した改正案と民主党案とは基本的な思想の違いがあまりにも大きいため、われわれは与党の修正提案に乗れませんでした。
しかし、憲法にしてもそうですが、本来であれば、教育基本法のような根本法は与野党対立の構図でやるべきではなかったと思います。われわれは最後まで政府与党に対して、まだ議論が尽くされていない。憲法については調査会をつくっている。同じように教育基本法の調査会をつくり、じっくりと議論しようではないか、と呼びかけました。それに対する答えは、すでに自民党と公明党で3年間議論を尽くしてきた、というものでした。しかしその実、わずか10人程度のメンバーによる「密室協議」です。自民党議員の間からでさえ出てきた法案を初めて目にして「愛国心をきちんと書き込んでいない」という反発が起きたほどです。きわめて大切な教育基本法についてこういうことが起きるのは、やはり自民党と公明党による連立政権のなせる業と言わざるをえません。
■ 質疑応答
Q)1
民主党の基本法案に「国柄」とありますが、法案の政策にあたり、国柄ちう根本的な部分について民主党の皆さんは、どのように勉強されたのでしょうか。日本の文化なり、歴史なりを徹底的に追究されたうえで出てきた言葉なのでしょうか?
藤村)われわれが基本法案を作ったとき、日本の国体はこうであるべき、といった決め付けはまったくしていません。しかし相当な時間をかけ、さまざまな専門分野の方々のご意見を聴いています。民主党は2000年に教育基本問題調査会を発足させ、そこで協議を重ねてきましたが、自公の協議とは異なり、つねにオープンなかたちで、全党参加のかたちでやってきました。その間、ヒアリングは多数行っています。歴史に関することだけで十数回に及んでいると思います。
Q)2
掛け算、割り算のできない小学生が増え、高学年になってから塾に通って一生懸命勉強しているとも聞きます。学力低下について、どのようにしていくべきとお考えですか。
藤村)OECD(経済開発協力機構)のPISA(生徒の学力到達度調査)という学力調査があります。その調査で日本の子どもの算数と読解力のランクが下がったということが大きく報道され、危機感が一気に高まった面があります。しかし日本の小中学生の学力は世界的に見てそう低くはありません。
ゆとり教育への反省はあるにしても、たんに授業時間を長くすればよいというものではありません。注目すべきは学力調査トップのフィンランドの年間の授業時間はむしろ日本より少ないということです。何が違うかといえば、少人数教育を徹底していることです。日本は法律上未だに40人学級ですが、われわれ民主党はこれを30人学級にせよと、要求しています。
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